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本町は江戸時代から続く「商いの町・大阪」の中心

船場センタービルの中の内部。衣料品の問屋街として知られているが、小売にも対応している店も多い。

観光や行楽での話題になることが少ないこともあって、本町は一般の人は忘れがちかもしれません。それだけ純粋なビジネス街・オフィス街です。とはいえ、歴史的にも重要なエリアなので大阪を理解するためには本町についての知識は仕入れておくようにしましょう。もちろん、ビジネスマンならば自身が勤務していたり、取引先がオフィスを構えていたりすることも多いはずです。もう一度おさらいしておいたほうがいいかもしれません。

本町と船場の関係

上を本町通り走り、東横堀川にかかる本町橋。かつて、ここから奥が「船場」とされた。
「本町」と「船場」は密接な関係があって、それそれのエリアも理解が簡単ではありません。

まず、住所表示上、大阪市中央区内でこれらの名前が含まれるのは次の3つです。

(1)「本町」
(2)「南本町」
(3)「船場中央」

また、通称については次のように考えればいいでしょう。

(4) 通称の「本町」=(1)(2)(3)を併せた範囲。さらにはその隣接地域。
(5) 通称の「船場」(あるいは、歴史上の「船場」)=(1)(2)(3)を含んだ大阪城西側の広い範囲

こうやってみると分かるように、その時々や話す人によって、全く同じ場所を「本町」と呼んだり「船場」と呼んだりすることが珍しくありません。

また、「本町」の東隣に「内本町」(中央区)、西隣に「西本町」(西区)という地名もあります。どちらも歴史上の「船場」の内ではありません。別のエリアと考えたほうがいいでしょう。

住所表示上の「本町」の範囲

住所表示上の「本町」は、東西に走る本町通を中心にしています。西の端は御堂筋、逆に東の端は大阪城から約1キロ程度のところで、この間1キロメートルほどです。また、南北は最も広いところで約300メートルで、大半はその半分もありません。つまり、帯のように東西に細長く延びています。

住所表示上の「船場中央」の範囲

中央大通りの高架下を利用してつくられた「船場センタービル」。かつては「丼池筋(どぶいけすじ)」にあった衣料品関係の問屋の多くがここに引っ越した。

住所表示で「船場」がつくのは、「本町」の南隣の「船場中央」だけです。しかし、古くから残っている地名ではありません。1970(昭和45)年、新しく高架式の「中央大通」が作られ、その下のスペースを利用して「船場センタービル」がつくられました。このビルの付近に付け直された地名が「船場中央」です。

また、「本町」と「船場中央」に挟まれたエリアが「南本町」です。

船場センタービルの下を通る地下鉄中央線の駅名が「本町駅」「堺筋本町駅」となっていることからも分かるように、通称での「本町」はこの「船場中央」付近まで含めて考えていいでしょう。その場合は南北方向には600メートルか700メートルあることになります。

船場とは

江戸時代には、東西南北の境をそれぞれ東横堀川・西横堀川・長堀川・土佐堀川とした内側を「船場」と呼んでいました。南北2キロ、東西1キロほどの長方形のエリアになります。

東横堀川は今も残っていますが、上を阪神高速1号環状線南行きが通っています。また、西横堀川は埋め立てられ、こちらも上は環状線北行きが通っています。北側は旧・淀川である大川の左岸までと大きく広がり、大阪証券取引所のある「北浜」や、橋を北に越えれば「中之島」になる「淀屋橋」も「船場」に含んでいました。また、本町通で分けて「北船場」「南船場」といった呼び方もしていました。

これら「船場」「北船場」「南船場」の呼び方は今でも使われることがあり、「本町」や「北浜」などとの区別を難しくしています。

本町の歴史

船場の開発は豊臣秀吉の大坂城築城からです。その後、大坂城が江戸幕府のものになると、幕府によってさらに整えられました。

商いの町・船場の誕生

船場を城下町として整備する際、他地域の多くの商人が強制的に移住させられた。「安土町」「伏見町」などは移住前の土地の名前から付けられたと考えられている。

船場に隣接する上本町や谷町は上町台地の上にあって、秀吉時代よりも前から開発が進んでいました。浄土真宗の一大拠点で、織田信長にも抵抗した石山本願寺があったのがその一例です。一方、船場あたりは低湿地でなかなか開発の手が付けにくかったようです。

その石山本願寺は1580(天正8)年、織田信長との戦に破れ、和歌山の雑賀に逃れました。1583(天正11)年、信長の後に天下人となった豊臣秀吉が大坂城築城に着手します。豊臣政権の中心地ですから、当然城の周辺には大勢の家臣が集まり、武器・食料・生活用品も大量に必要になります。

城に接する西側は武家屋敷になりました。城下町を形成するためには広い土地が必要になり、その西隣の低湿地には何本もの堀川をつくって排水をよくしたり土を盛ったりしました。こうやってつくった土地に伏見や堺から商人や職人を強制的に移住させ、これが船場となります。

「船場」の名前の由来はいくつか説がありますが、「諸国から物資を運んできた船のための船着き場(船場)があったため」が最も有力な説とされることが多いようです。また、「本町」は特に大阪に限らず、「中心となる町」と理解すればいいでしょう。

近世の船場・本町

本町の直近にある北御堂(きたみどう、本願寺津村別院)。本町通を挟んで少し離れたところに南御堂(真宗大谷派難波別院)もあって、「御堂筋」の名前はこれらにちなんで付けられた。これも本町が大坂の中心であったこと証明のひとつ。

秀吉の大坂城とその城下町は、「大坂冬の陣・夏の陣」で壊滅状態になりましたが、大坂を手に入れた江戸幕府によって、城も町も再建されます。この際、江戸幕府は税の免除し、商業上の規制を緩め、関所を廃止するなどの商業振興策を採ります。また、この結果、大坂は「天下の台所」と呼ばれるぐらい、米などの物資が集まるようになりました。

江戸幕府は、大坂を支配・管理するための武士の数はあえて抑え気味にしたようです。それもあって、大阪は商人の町ともなりました。その商業が展開された場所が船場で、その中でも中央に位置したのが本町でした。

近代の船場

幕末から明治にかけては、船場の停滞期でした。というのは、幕府が倒れたのとほぼ同時に、藩もなくなります。大坂(大阪)に置かれていた全国の藩の蔵屋敷も一気に廃止されました。藩の御用で潤っていた豪商も倒産する始末です。ただ、道路が整備され、市電も開通するなど都市計画が進められました。その道路整備で主要幹線のひとつになったのが本町通です。

さらには、大阪全体が工業都市化しました。昭和に入ると御堂筋線を手始めに地下鉄網も作り始められます。大阪全体の発展のおかげで、船場も商業エリアとして復活します。

繊維問屋街ができたのは戦後

本町周辺にはいまでも糸偏(紡績・合繊・織布などの繊維関連のこと)産業の企業が多い。

船場を南北に貫く通りのひとつが、「丼池筋(どぶいけすじ)」です。戦前はこの左右に高級家具の問屋が並んでいました。しかし、他の大阪の多くのエリア同様に、第二次大戦中の空襲で焼け野原になりました。これが戦後復興するときに、繊維問屋街に姿を変え復興しました。

この丼池筋の繊維問屋街を繁栄させた理由のひとつが先進性です。掛け取引(後日の精算)が当たり前だったところに「現金取引」をいち早く採用しました。客が自分で商品をレジまで持っていって精算してもらう「スーパーマーケット方式」も同様です。卸と小売りの両方をやったのも丼池の特徴です。

ただ、船場の再開発に伴い、これらの問屋の多くは「船場センタービル」がオープンすると同時にビル内に移転しています。今では、「船場の繊維問屋街」といえば、この船場センタービルを指すと考えていいでしょう。

典型的なオフィス街、本町

御堂筋との交差点から本町通を東に望む。

江戸時代から続く商業エリアが船場で、その真ん中が「本町」です。今でも通称の「本町」に本社を置くところでも次のような企業があります。

・オリックス
・鴻池組
・竹中工務店
・日本ハム
・ダイワボウ
・クラボウ

だれもが知っている大企業も少なくありません。この周辺まで含めると、もっと増えます。今でも商都・大阪の中心のひとつと考えていいでしょう。

本町はやはり住むよりはビジネスの場

本町通の1本北の通り沿いで建築工事の始まったマンション。ただし、こういった物件でも実際にはオフィスに使われることが多いという。

近年の大阪市内では、かつては工場地帯・問屋街・ビジネス街だったのが住宅地としての面を持つようになったエリアは少なくありません。しかし、住所表示上の本町から船場中央あたりにかけてはそういったことはなく、今でもかなり密度の高いオフィス街です。

さすがに本町通沿いには住居用のマンションが建つことないものの、そのものズバリの本町を外して、安土町やその北、中央大通の南側などには見られるようになってきました。本町通までは歩いても数分なので、本町に住みたい場合は、この辺りまで視野を広げたほうがいいでしょう。