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中小企業の知恵袋・川辺友之さんが語る大阪への思い・経営への思い


株式会社NFL社長の川辺友之さんは、今セミナーや講演会に引っ張りだこの経営者だ。自分でもそういい、ほかの人も認める「地獄の10年間」という経営危機を乗り越えた体験談は、経営に悩む人の多くが聞きたがる。その忙しい川辺さんに時間を作ってもらい、ご自身の会社のこと、大阪のこと、そして愛してやまない谷町のことを聞いてみた。

川辺友之さんとは

川辺さんはフォーマルウェア(礼服)の株式会社NFLの3代目社長だ。また、クラウドファンディングを事業展開するために株式会社パーシヴァルも起業した。

『のだめ』のタキシードは大阪・谷町製

『のだめカンタービレ』と聞けば、指揮台に立つ玉木宏さん(千秋真一役)の姿を思い浮かべる人も多いだろう。コミックが原作で、テレビドラマ化され、さらには映画まで作られたラブコメディーだ。ドラマと映画の要所要所では、玉木さんや楽団員役が、光を全部吸い取ってしまう深い黒・仕立てのよさからくるスキのないシルエットのタキシードを身にまとった。この1点も欠けることのないフォーマルな衣装があったからこそ、おかしみも増したのではないだろうか。そのタキシードを製作したのが、梅田(大阪市北区)に本社、谷町(中央区)に縫製工場を置く株式会社NFLだ。

祖父が生地問屋として創業

川辺さんの祖父は戦前、谷町の生地問屋で丁稚奉公をしていた。出征・シベリア抑留を経て復員し、谷町に戻って1952年に自分の生地問屋を持った。父が手伝うようになると、礼服の製造と卸に事業を拡大する。大手紳士服チェーンが取引先となり、一時は業界2位になるまで成功した。しかし、バブル経済が崩壊し、在庫が積み上がるようになる。海外で作られた製品との価格競争にも負けた。

バブル経済崩壊の経営危機で呼び戻される

次男坊の気楽さで、川辺さんは「家業にはタッチしなくていいだろう」と首都圏でサラリーマン生活を送っていた。しかし、父を手伝っていた兄から「助けてくれないか。親孝行は今しかできないぞ」といわれ、退職して大阪に戻る。27歳、長野オリンピックの開催された1998年だった。
経理を任されたが、すぐに本業部分だけで借金が40億円あることを知る。「周辺事業もあるから、本当はもっとある。しかし、おやじがとうとう口を割らなかったので、実は今でもその時の借金の総額がわからない」と苦笑いする。2001年には、頼みの綱だった大手紳士服チェーンまでが倒産し、さらに追い詰められる。

経営をいっそう悲惨にした銀行の貸しはがし

その悲惨な状況をさらに悲惨にしたのは取引銀行だった。ソフトな語り口の川辺さんだが、これだけは「銀行にいじめ倒された」と表現する。具体的には、強引に融資を回収する「貸しはがし」だ。「毎日のように、『金を返せ』『金を返せ』と電話がかかってきました」。資金が足りなくなり、礼服の材料も現金で仕入れることができない。経営規模縮小を繰り返し、かつては200人いた社員は20人にまで減った。
「銀行なんかと、だれも付き合いたくないわ」と今でも言い切る。とはいえ、「いやー、やはり貴重な資金調達方法です。そういうのは心の中に秘めて、付き合いをやっています」と笑う。「でも、銀行に借りる以外の方法があったら、みんなも助かるでしょうね」

リピーター重視の販売戦略に切り替え、ようやく危機を乗り切る

「あそこはもうすぐ倒産するぞ」ともいわれた。ただ、10社ほどだが、「支払いは後でいい」と材料を卸してくれるところがあり、なんとか製品は作り続けることができた。苦しい中でも、国内生産というだけではなく、谷町の縫製工場で熟練の職人が作ることは譲らなかった。そうしているうちに、父と兄は2000年に自社ビル内に結婚式場を作り、関連事業として成功させる。ここでの利益は家業・本業である礼服製造・卸に回ってきた。
2006年、64歳の母がすい臓がんで亡くなる。倒れるまでの5年間は休みなしで働き、力が尽きたのだ。その母の仕事も引き継ぎ、デザイナー・資金繰り・海外出張と、姉には大きな負担がかかった。すでに経営危機は脱したあとだったが、2015年、「もっと生きたかった」と言いながら、その姉は45歳で亡くなった。嫁いだあともいわゆる「マスオさん」状態で一緒に住んでいたこともあって、苦しかったときの無理がたたったのは嫌でもわかる。

結局、今日の成功へとたどりはじめたのは、2007年ごろだった。すでに製造・卸にこだわらず、ネットや実店舗による小売りを始めていた。この小売りで、「新規客が欲しいからといって、広告にコストを掛けない」「固定ファンを作り、リピーターを増やすことに専念する」「商品は自社製品だけに絞る」などを実践することでようやく経営は黒字体質になったのだ。前後して、品質にこだわり続けた効果も出始めていた。『のだめカンタービレ』のテレビドラマ版でタキシードが採用され、視聴者の目を引きつけたのも2006年秋だった。

クラウドファンディングも展開

貸しはがしに遭ってつらい思いをし、「銀行以外の資金調達方法があったら、みんなも助かる」と考え、実現させたのがクラウドファンディングだ。2014年に始め、株式会社パーシヴァルとして起業した。
ここでいう「クラウドファンディング(crowd funding)」とは、「資金の必要な人がいる。一方で、資金を提供できる人がいる。その両者を結びつけるインターネット上の仲介サービス」をいう。資金を求める側はプロジェクトを提示しなければいけないが、インターネットを使うために気軽に利用できる。ネットにアップされるので多くの人の目に触れ、自動的に宣伝効果もある。また、広く浅く資金を求めるので、応じる側が提供するのは少額で済むことが多い。この出資のお返しとして、物がもらえたりサービスが受けられる「購入型」、リターンのない「寄付型」など、クラウドファンディングにはいくつかの種類がある。
仲介の場となるサイト「FAAVO」では、すでに全国でプロジェクトが目白押しになっている。
・FAAVO(ファーボ) _ 地域 × クラウドファンディング
実は、川辺さん自身も、「現代サラリーマンの甲冑!真田幸村スーツで大阪の縫製業界を盛り上げたい!」として、購入型でプロジェクトを出してみた。
・現代サラリーマンの甲冑!真田幸村スーツで大阪の縫製業界を盛り上げたい! – FAAVO大阪
50万円が目標だったのが、北海道から九州までの50人あまりが出資して250万円近くになった。「これはびっくりしたし、うれしかった。こんなに賛同してくれる人がいるのかと力にもなった」という。2、3カ月後にその人たちに、ネックのネームタグなどに「真田の六文銭」が入ったスーツなどが贈られ、「こんなのを待っていたんだ」と絶賛された。

クラウドファンディングの意義について、川辺さんは「これは一種のコミュニティー活動だと思います。もちろん、大きなところは政治や行政にやってもらわなければならない。しかし、細かいところまでは行き届かない。そういった部分は仲間同士、あるいは隣にいる人が助ける。それをネットを介してやっていると考えればいいんじゃないかな」。これには、「倒産間際まで追い込まれたときに手を差し伸べてくれる人もいた。今度は自分が手を差し伸べる側になりたい。また、そういった手伝いをしたい」という思いも込められている。

アイデア経営者・川辺さんの原点

高校・大学・サラリーマン時代の経験は、経営者となったその後にかなり直接的に影響を及ぼしている。

高校時代は超進学校で野球部員

小学校・中学校は地元の公立校で学び、高校は大阪星光学院に進んだ。中高一貫の私立進学校として知られているが、10人程度だけ高校からの枠がある。川辺さんはその1人だった。
野球部に所属し、ポジションはキャッチャーやセンターだった。「3年生のときの夏の大阪代表は上宮高校で、後に読売ジャイアンツで活躍した元木大介がいました。スター選手でしたね。一方、こっちは大阪大会で初戦敗退、それもコールド負けばかりです」と笑う。チームワークを重んじ、仲間を大事にし、助け合うことで物事がスムーズに回るのはこの野球部で知った。

今はOBチームの一員となり、「マスターズ甲子園」の予選にも参加している。「ろくに練習していないので、なかなか勝てない。でも、そのうち大阪代表になって甲子園の全国大会に出たい。夢よもう一度ですよ」

大学時代にパソコン通信と出会う

進学先の慶応大学経済学部については、「東京は行きたくて行ったわけではない」という。京都大学を落ちた結果の滑り止めだった。東京での暮らしは、「こっちの人間って、冷たいなあと思った」とあまりいい思い出はないようだ。勉強熱心な学生ではなかったともいう。ただ、この学生時代にパソコン通信と出会った。今でいうインターネットだが、パソコン通信では「特定の会員同士でしか交流できない」という大きな制約がある。一般の電話回線を利用していたこともあって、通信速度も今との比較では信じられないぐらい遅かった。

早くからパソコン通信・インターネットになじんでいたことは、後に役立つことになる。1999年、楽天・三木谷浩史社長の勉強会に出席したところ、「紳士服はインターネット通販に出せば売れる」とアドバイスされた。目からウロコが落ちたように感じ、即座にインターネット・ショッピングモールの楽天市場にフォーマル専門店「ノービアノービオ」を出店する。とはいえ、話はそう簡単ではなく、2年間は鳴かず飛ばずのままになった。
これを変えたのは妻の知恵さんだった。300件ぐらいしか商品登録をしていなかったのをコツコツと自分で作業し、約1,000件まで増やした。ここから売り上げが伸び始め、2005年には月商1,000万円を超えるようになる。ただ、広告費などを掛けすぎていたこともあり、まだこの時点では利益を出すのは難しかったという。それでも、在庫がはけるようになったのは大きな前進だった。
その後、自身でブログ記事を書き、「タキシードと燕尾服の違い」「こんなお客様にご訪問いただきました!」などを紹介したら、今度はネット通販だけではなく、実店舗の売り上げまで3倍4倍と伸びた。これはもちろん、基本的な経営方針にした「固定ファンを作り、リピーターを増やすこと」につながる。
今でも自分で記事も書くし、社員にも書いてもらっている。「ブログ記事などネットを商売につなげるのは一般的になったかもしれない。しかし、アクセスを分析して、『これからはどの商品をプッシュすればいい』『この情報を出せば新規のお客さんが増える』といった判断ができている会社は少ない。今からでもネットを使ってライバルと差をつけることは十分にできます」

ダイエーの新入社員時代に阪神・淡路大震災 志願して神戸へ

大学卒業後はダイエーに就職した。流通業界の最大手で、しかも、「ダイエー王国」との呼び名もあるぐらい当時が全盛期だった。その入社後1年もたたないうちに阪神・淡路大震災が発生する。ダイエーは大阪発祥で、この当時は神戸に本店を置いていた。
川辺さんは埼玉県で勤務していた。数日して被害状況がはっきりすると、「神戸がひどいことになっている。人手が足りない。だれか行ってくれる人はいないか」と社内で志願者が募集された。すぐに手を挙げて神戸へ行き、被災した店舗の再開に当たった。
今、パーシヴァルによるクラウドファンディングでも、大規模な地震や水害が発生すると、復旧支援のための寄付型プロジェクトがいち早くFAAVOにアップされる。熱意が入るのにはやはり20代前半で見たがれきだらけの神戸の町並みが影響しているという。

川辺さんの住む谷町と家

関西の高級住宅地には兵庫県の芦屋・奈良県の学園前などがある。オフィスや店は大阪市内に構えていても、住んでいるのはそういった周辺の住宅地の経営者は少なくない。いや、むしろそれが普通だろう。だが、川辺さんは谷町に住み続け、今後も引っ越すつもりはまったくない。

紳士服の街・谷町も今では縫製工場は川辺さんのところだけ

大阪市内で南北に走る通りを「筋(すじ)」という。御堂筋と並ぶ幹線道路が谷町筋で、市内の中心を抜ける部分に沿った細長いエリアを「谷町」と呼ぶ。2キロほどの長さで、北部は大阪府庁・大阪府警察本部などもある官公庁街になっている。南部にはお寺が多く、空堀商店街のある一角は大阪中心部では珍しく空襲を逃れた。そのため、戦前の大阪の風情もほんのわずかだが残っている。

北部の東隣にある大阪城には、明治に入ってから当時の軍制では陸軍最大の部隊である「鎮台」が置かれた。この大阪鎮台からは使い終わった軍服が払い下げられ、それを仕立て直して民間に売る業者が谷町に集まった。やがてそれらが既製服製造業者へと進化する。特に谷町が得意としたのが紳士服で、最盛期には約140軒もの縫製工場があったらしい。しかし、いずれもバブル経済の崩壊・安い外国製品の流入で廃業、あるいは、海外に移転した。今残っている縫製工場は川辺さんのNFLだけになっている。
また、相撲の「タニマチ」は、「1899(明治22)年に谷町に開業した外科医・薄恕一(すすきじょいち)が無類の相撲好きで、力士らの大スポンサーであったことから来ている」とされている。

これぞ、職住一致 川辺さんの家

川辺さんは「大阪平野の東の端、電車でトンネルを抜けると奈良県」という石切で3歳まで過ごし、その後、谷町に移った。子ども時代に住んだ家は、1階が縫製工場で、その上の階が住居、さらに上は倉庫になっていた。建て替えはしたものの今も典型的な職住一致を続けている。
ご近所ではコミュニティができていて、地域の祭りなどもしっかり運営されているという。都会にありがちな、人の出入りの激しさもない。「女性は結婚していったんは出ていくんですけど、相手を連れて帰って来たのが何人かいる。みんなよほど気に入っているらしい」

中小企業経営者・ベンチャー経営者に大阪がおすすめなわけ

川辺さんは特に経営者に対して大阪市内に住むことをおすすめする。背景には「谷町の地場産業の経営者」としての自身の経験がある。

インバウンドでにぎわうこれからがチャンス

「東京一極集中」がいわれるようになってから久しい。同時に進行したのが大阪経済の地盤沈下だ。日本生命・パナソニック・住友商事・大林組など大阪発祥の大企業も、名義上はともかく実際の本社機能をとっくの昔に東京に移してしまった。しかし、川辺さんは「中小企業の経営者や、今からベンチャーを起こそうという人こそ、大阪に住んで事業を展開するべきだ」という。
その理由は、「今、もっともインバウンドでにぎわっているのが大阪だ。つまりは、国内にいながら外国人と直接に接触しやすいということでもある。外国人をターゲットにしての商売もあるだろうし、仲間として引き入れての商売もできる。すでに事業を展開している人には新しいビジネスチャンスが生まれやすいし、発想もわく。ベンチャーを始める人にも同様で、一番勉強になる」

住みやすい・コミュニティーが作りやすい

もうひとつが、大阪の人たちの気質がある。自身で「地獄の10年間」と呼ぶ経営危機のときにも、手を差し伸べてくれる人がいた。「東京ではこうはいかなかっただろうなぁ」と学生時代・サラリーマン時代を思い出していう。
ほかにも「住みやすい」「東京みたいに人が多すぎない」「地域のサイズのまとまり方がいい」「コミュニティーが作りやすい」などなど、止まらないぐらいに理由を挙げる。
自身が事業展開しているクラウドファンディングでの手ごたえの確かさもある。会社を大阪に置いているせいもあるだろうが、それを考えても大阪での反応がいい。FAAVOには大阪エリアのオフィシャルパートナーとして、大阪市住之江区、大阪市港区、大阪府環境農林水産部といった公的機関も名を連ねるようになっている。

川辺さんおすすめの大阪エリア

「最近、北区と中央区にタワーマンションがすごい増えていますね」と、川辺さんもその勢いにびっくりしている。
その北区・中央区の中でも川辺さんのおすすめのエリアは、「そりゃ、谷町(中央区)が絶対いい。一番です」とご自身の地元を挙げる。それ以外では、北区の南森町・天満、中央区の天満橋などだという。「意外に物価が安くて住みやすいですよ。私だったら生活の便利さも考えて、こういったエリアで、マンションも以前からの町並みも適度に混在しているところを選ぶかな」

【まとめ】適用力とセンスを磨いて、大阪で勝負を

川辺さんがこれからの経営者に必要なこととして、「適用力」と「センス」を挙げる。「これからの日本は、絶対にメッチャ(ものすごく)変わる。今までみたいな島国根性では通用せんでしょう。おそらくは、インバウンドでにぎわっている大阪が日本の中で一番最初に変わる。経営者としての適応力とセンスが問われることにもなるが、ぜひ、大阪を活躍の場にしてこのチャンスをつかんでほしい」

取材先情報(株式会社NFL)

所在地(株式会社NFL 本社) 〒540-0021 大阪市中央区大手通2-1-7 ニュー大手ビル2階
電話番号 06-6147-4727
公式サイト http://nfl.co.jp/

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